<2代目ブエコ世界への道/コラム>誰も立ち止まらない場所で立ち止まる。

誰も立ち止まらないような場所で
立ち止まる時間が好きだ。

誰も立ち止まらないような場所に
自分だけのきらりと光る見逃せない何かを見つけて
思わず立ち止まる時間が好きだ。


10年ほど前に京都の清水寺で
たくさんの、本当にたくさんの人が
清水の舞台の前をざあっと流れていく様子を
少し離れた橋の上からただただぼんやりと眺めた
あの時間は宝ものだ。

「今なに考えてるの?」

一緒にいた友人に問うと
パン職人のとっきーは「餡子のこと」といい
グラフィックデザイナーのいくのちゃんは「色のこと」といい
当時コピーライターだった私は人が流れる意味を考えていた。


誰も立ち止まらないような場所で
一緒に何かを感じて立ちどまる人がいる
何か面白い気づきをくれる人が好きだ。


5年ほど前にベトナムのどこかの観光地で
なぜか山の向こうで稲妻がずっとピカピカしていることが不思議すぎて
人々がせわしなく行き交う道の真ん中に座りこみ
誰も見向きもしない稲妻を飽きることなく見つめ続けた
あの夜のあの時間は宝ものだ。


誰かがいいよ、と言ったものを、
いいね、と言いに行くための旅や経験は
昔からあまり好きではなかったけれど
経営者になり、親になり、
お店とスタッフ、我が子を育てる立場になり
私も育てられながら感じるのは
誰かがいいよ、と言ったことではなく
自分がいいな!!!と思うものを心底追求しなければ
この時代の荒波は乗り越えられないということだ。

悲しいけれども私たちは
この世の中にオギャーと出てきて大人になるまで
自分で「いいな!」と思うものを諦めされられたり
我慢しなきゃいけない世界に生きている。
一通りの勉強をして社会性を身につけた頃には
お昼ご飯のメニューさえ「どっちでもいいよ」と言ってしまう
人生ぜんぶ他人まかせ人間に仕上がってしまう。
というか、私はそんな人間に仕上がってしまった。
皆さんはどうですか?


そんな世界を30年ほど生きたころ、
これは私の生きる場所ではなあああああい!!!!と思い立ち
自分がいいと思うものを探し出す嗅覚を磨き
自分はこの自分でいいと思えるタフさを鍛えあげ
他人の見る目なんて本当は存在しないことを言い聞かせ
必死であがいた10年を経てやっと
生きるって最高!と思える世界が広がった。
(長いな・・・)

子供達には幸せな大人になってほしいと常々願いながら子育てしているが、
じゃあ何が幸せな人生かと考えた時
「自分で決められる」人生だと、夫婦で答えを出した。
たくさんの我慢や諦めが人生には転がっているが
それらを注意深くよけながら我が子には
自分自身がいいな、と思う寄り道をさせてあげたい。


自分の人生を歩んでいない気がする時、
自分の答えを自分で掴んでみたくなった時、
日常の中でふと「いいな」と思ったものを立ち止まって
何が自分を惹きつけたか思い切り堪能する時間をもってほしい。
他人に説明する理由は何もいらないしSNSにアップする必要もない。
小さい子供が一歩踏み出すごとに宝ものを見つけるように
気になるタイトルの本は手にとって
気になる小道は曲がってみて
どっちでもいいよと言うのをやめてみて
感性のままに動く勘を磨いてみる。
誰かのガイドじゃない
自分だけの寄り道が上手になったころ、
歯車がカチッとあったように世界は面白く回りだす。

でーじ時間がかかるけれど、
経営も子育てもうまく回していくには
それが根本ではないかなと思う今日この頃でした。


誰にも聞かれてないけど誰かの役に立ちそうなことを書くシリーズ。